羊羹とティーバッグのお茶

水蜷菱は葛の粉を練り、砂糖を入れてひろげて冷し、短尺の如くに小さく切りたる物也。


黄と白と二色を交る也。


もと水仙養なるべし、水仙の花也、古はたれみそ汁につけてくらふ也。


今はいり酒につけて食す。


又禅宗で行われて是等の食物の法も伝へたるなるべし、


ただし、もとは鳥獣の肉を用ひしを僧家には是を除き製法をかへ、又こ二の人にかなふ様になし、又其物の形色に似たるによりて名ある物も有べし、後には名のみ、同じく物いたく替はれるも有とみゆ


・・・今の羊養がこれとありますが、このころは蒸羊菱でした。


羊羹はティーバッグのお茶ともよく合いますよね。


また点心のうちには麺類があって、饅鈍(うどん)は小麦粉をこね、臼でつき、まるめ、一つずつとり出して打ち、加減は食べてみてよいようにします。


汁はたれ味噌がよいでしょう。


また胡麻・梅を入れるとあります。


この他螺結・柳葉麺・桐皮麺・経帯麺・打麹・三雑麹・素麺・莚葉麺・冷麺、それに碁子麺・胡蝶麺・散索麺・冷淘麺などあって、やはり奨のように汁の中に入れて出しました。


この時代は中国伝来のものが多く、日本製の菓子は少なかったのです。

茶の湯の流行

伝教大師も平安朝の初め持ち帰りました。


しかし、喫茶と宋風の抹茶が伝わったのは、やはり建久二年(一一九一)栄西禅師が帰朝した時、茶を持ち帰って、肥前(佐賀)の背振山霊仙寺に茶の種子を蒔いたのが初めです。


次に明恵上人が京都栂尾にも分けて植え、また宇治にも分栽しました。


・・・このように茶の伝来から茶の湯の流行となり、喫茶の風が発達してくると、茶の菓子の生まれてくるのは当然のことでしょう。


この時代にティーバッグのお茶があったら、きっと大人気だったでしょうね。


禅宗の僧侶は茶の菓子を点心といいました。


これは「定食と定食との間の小食」のことで、心に一点を加えることをいい、また「茶の子」ともいわれました。


すなわち間食ですね。


そして点心には、主として羊糞と饅頭が用いられた。しかし今の菓子と違って、菜を三種ばかり添えてあり、養といいます。


『庖丁聞書』に「惣じて菱は四十八わんの持様有といへども、多くは其形によりて名有といへり」とあって、形によって名前が異なっています。


現在四十八種の名は揃って伝わっていません。


お茶のはじまり

奈良時代、天平勝宝五年(七五三)孝謙天皇の御代に、唐僧鑑真が来朝、黒砂糖を献上しました。


次に桓武天皇延暦二三年(八〇四)に、最澄・空海が入唐して、順宗帝に招かれて、亀の甲型せんべいを食べ、淡白で風味があり、帰国してから山城国(京都)小倉の里の住人和三郎に製法を伝えました。


葛根と米粉に果実の糖液を混ぜて焼き、「亀の甲せんべい」と名づけます。


・・・これがせんべいの始まりとなっています。


「煎餅」は唐菓子に字は現われますが、別のもの。


東山時代には、宋や元の文明と禅宗の趣味の合体からなって、いよいよ茶の湯の形が現われてきます。


茶はご存知のとおり、伝わったのは聖武天皇の天平元年(七二九)、引茶の節会が始まりと記されていますが、これは奈良朝の初め、遣唐使などが茶を伝え、栽培したらしいですね。


さすがにまだティーバッグは登場していません。


日本菓子への影響

薄い円形で、麦粉を用いて中に飽を入れたものがあります。


道喜の龍にそのおもかげがありますね。


鎚子は、芋の子に似た形の蒸餅。


団喜歓喜団ともいわれ、聖天尊のお供え。


俗に団子に似て餡を包みます。


今のシューマイのような団子ですね。


伝来当時は餡はなかったらしいです。


「伏兎」(伏した兎)に似ているので、この字を当てることがあります。


米の粉の餅を油で揚げたもので、伊勢熱田・春日・八坂・上賀茂・下鴨などの各神社の神饅菓子として伝わっています。


奈良の「火打焼」「館鮭饅頭」などもこの変形ですね。


糧餅モチ米の粉をこねて細くひねります。


この唐菓子は現代に至るまで、日本菓子に大きく影響し、朝廷の儀式や饗宴の際にも使われた記録が残っています。


ティーバッグのお茶が出るのはまだまだ先の話ですね。

昔のお茶菓子

平安朝の初めまでに輸入されたものは、唐菓子八種と果餅十四種がありました。


『厨事類記』にある説に曰く・・・


餅気なき米を白めて、粉に掲き箭ひて、餐の様にし、捏て押し、扁めて湯をさらさらと湧して、湯に浮くほど煤でて、また臼に入れて、めでたく揚合はせて取り出して、


布を濡らしてそれに包みて、布の片端を掲げて、冷さずして少しづ玉取りて何にても造る也。


異説云、煤る時、生大豆の粉をよく揚飾ひて、此の捏たる粉に打ちはふりて能く揚き混ぜて、豆の粉に塩を少し入れて掲き合すべし。


さて何にても造るべし。


豆の粉を掲き混ることは冷むれども柔かにて造り能き也。


又説云、小麦の粉を燵べし色の黒く赤き斑によきなり。


造りて後は、善き油を濃く煎じて入べし。


・・・と、「唐菓子」の大略の製法を述べてあります。


豆を掲き混まぜ、硬くなるのを防いで、今の洲浜によくにていますね。


色づけに小麦粉をくわえるなどは、おもしろい製法です。


木で薄く押し広げ、赤青にぬり油で揚げたもので、人字型のものや金環の一部が欠けたようなもので、一つ梅枝、三ッ梅枝と枝数によって変わります。


桃子(桃枝)桃花を象ったものでしょう。


文献も形も伝わっていません。


鰯醐蝸という食用昆虫の形を、米粉などを衣にして揚げたものらしく思われます。


桂心中国の法冠が玉冠の形をしたものを象り、米の粉を'のばして揚げ、乾かしたものです。


肉桂を加味料に配合して、薬用兼菓子ともいわれています。


ティーバッグのお茶とは合うのでしょうか。


それだけが気がかりです。

お菓子の種類

『嬉遊笑覧』には、


古へ菓子は木の実の外には「からくだもの」とて漢土の寒具の類を学びて造れるもの種々あり寒食は冬至より百五日を三月の節とす即晴明なり、


漢土は旧例にて、此日火を焚ざれば、前日より種々の菓子を調べ置て食ふなり、あた玉かなゐ食物なければこれを寒食と云ふ、寒具は、その備への食物なり。


・・・と書かれています。


寒具は必ずしも菓子類のみで無く、他の食料品にまで広く渉っていますが、漢名の菓子のように扱わ
れています。


『和名抄』や『江家次第』の古い文献に見えるものをあげると、


八種の唐菓子は梅枝・桃枝・錫醐・桂心・鈷膀・餌鰹・髄子・団喜これなり、みなうるの粉に甘きものを加へてつくねさまくの形に造り多くは油あげにしたるものなり、此他に錯鮭・糧餅・結果・捻頭・粉熟・餌鈍など諸書に出たり名と形はかわられどもいつれも八種類なり、また索餅・餅肢といふものあり索餅に一種手束といふあり。


・・・上の他に鱒鈍・魚形・椿餅・餅餉・粗粒・煎餅の十四種があります。


まだティーバッグのお茶などはなかった時代なのに、お茶菓子はこのように多くの種類のものがあったのですね。


唐菓子とは

菓子は、青梅・黄梅・枇杷・楊梅・瓜・茄⊥覆盆子・岩巣子・桃・杏・聚・李・林檎・石榴・梨・奈柿・稗・栗・椎・金柑・蜜柑・榿橘・鬼橘・柑子・鬼柑子・雲州橘等をいふ。


・・・他に『庭訓往来』などにもあげてあります。


十五代応神天皇のころは、漢籍が百済から伝来して、中国文化との交流や仏教伝来によって一新されて、遣唐使が唐朝から持ち帰ったものの中に「からくだもの」がありました。


わが国の神饅用菓子にも、その流れの和菓子にも、今もその風が伝わっています。


唐の文字に対しては心酔し、盲目的であったらしく、「唐を文明の天国」ともいっていたらしいですね。


「唐菓子」といい、また茶器の中国物を「唐物」というのと同じ読みです。


唐菓子とは、モチ米やウルチ米または麦をこね上げたり、大豆・小豆に塩を少し入れ、油で揚げたものらしいです。


なんだかティーバッグのお茶ともよく合いそう・・・。

お茶菓子はいつから?

この橘が日本へ伝わり、栽培されました。


そして果実の初あとされ、木実・果実は菓子の最初とされて、これを持ち帰った田道間守命を菓祖としたようです。


四十五代聖武天皇の詔勅に、「橘は果子の長上、人の好む所」といわれており、果子が木の実であることがわかります。


奈良朝以前は素朴な自然の形や味が喜ばれたのは当然で、香りゆかしい木の実を、「古能美」「久多毛乃」といっていました。


奈良朝になって中国との交通が盛んになり、文化とともに飲食物が輸入されました。


・・・しかしこれらはいずれも食膳用の一種で、間食用のものでなかったのです。


茶菓子は室町時代まではまだ出てきてはいません。


ティーバッグのお茶は近代のことですよね。


このふたつの歴史はなかなか興味深いものです。

和菓子のあゆみ その2

繭類では瓜・真瓜・斑瓜・白瓜・茄子・郁子(むべ)・葡子(ぶどう)・蓮子などの類が記されています。


菓繭類は上古時代の自然の食料として必要なものであったのでしょう。


その果物のうち、橘を菓子の起源とする伝説があって、兵庫県の中島神社に祀られる、田道間守命(多遅摩毛理)の伝説です。


十一代垂仁天皇の九十年春三月、天皇がご病気であったため、不老長寿の霊薬である「非時香果」を求めるように命を受け、常世の国(今の中国南部からイソド方面といわれる)に渡り、九年の年月を過ごして、香果八矛・八綾を持って帰りました。


しかし、天皇は崩御された後であったので、汰后に半分を献上したあと奈良の御陵の前に献り、


「常世の国より持ち帰りしを復命する能わず、臣生けりとも益なし」


・・・といい残して、陵前で殉死したと伝えられています。


この霊薬は登岐士玖能迦玖能木実といって、いろいろの説はありますが、橘であるといわれています。


「非時香果」とは、永く木に保たれ、実.花・葉ともに何時までもあるというところから名づけられたらしく、また橘が蜜柑の原種となって、次第に多くの種類になったのです。


ティーバッグのお茶と和菓子はとても相性がいいですよね。


そんな和菓子のあゆみを一緒に知りましょう。

和菓子のあゆみ

茶菓子が生まれた、日本の菓子の現代まで歩んできた経路をたずねると、祖先の人たちが食べていたものは、草や木の実などを主としていたことが伝えられています。


それは山野に自生したつる草の実であるえびつるやその他自然の草木類から無毒の実を採っていたものです。


その後、楊梅子・栗・柿・桃・梅の果実類が、インド・中国・朝鮮などから伝わり栽培され、果実に対する好みも次第に発達してきました。


まず菓子の「菓」は木の実で、「菰」は草の実。


これをまとめて「木菓子」といったり菓菰類ともいったりしています。


『和名抄菓類』には、


菓菰唐韻云説文木上日ゾ果(字或作レ菓、日本紀私記云、古乃美、俗云久太毛乃)。


地上日菰(和名久佐久太毛乃)漢書注張曇旧有〆核日レ菓無μ核日レ菰。


応勧日木実日レ菓草実日レ繭云々


・・・と註して、石榴・梨子・栗子・桃子など、いわゆるくだもの類を挙げ、同書次に菓具類は核類で、桃の核・栗の刺・桃の脂を書き、今でも中国では西瓜の核を好んで食べます。


ティーバッグのお茶ともよく合いそうですよね。